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相手のレベルと自分のレベルは違う。

若いんだから、パソコンくらい使えるよね。とオトナは言う。
前「パソコン使えるんだから直せるよね」と言われて困ったというまとめサイトがあったように、「パソコンが使える」という言葉は非常に難しい。

参考:「詳しいでしょ?お願いPC直して」→「あんまわかんないすけど」→「まだ直らねえのかよ使えないな」  

面接をしていると「パソコン使えます」という人が沢山ご応募くださる。が、そのうち半数は「文字を大きくしたりできます。」「グラフ作れます」というレベルである。教えるって言うのは相手の数倍の知識を持っておきながら、それを相手のレベルに合わせて小出しにするまるで銀座のママさんのような対応が必要なのだから、そんなレベルの人はムリである。

とはいえ、パソコンを使う仕事をしていると、相手が「パソコン使えます」という言葉を額面どおりに受け取る・もしくは相手の「使える」を自分と同じレベルに捉えてしまう傾向があるような気がする。

例えば、団塊世代。
「団塊世代はパソコン使えるよねー!」「インターネットとか大丈夫!」と担当者の方は言う。
しかし、実際にユーザビリティ調査をするととんでもないことが起きる。
そして、団塊世代は言う。


「だってこのサイト使ったことないもんねー。このサイト見んのやんなった!」


いやいや、使ったことがないサイトを無理なく使えるのがいいサイトなので・・・と小さな声で呟く。


「オレさ、このサイトより、あっちのサイトのほうが使い慣れているから、あっちのサイトだったら使えるよ!」と嬉しそうに団塊世代が言う。


いやいや、だから、ユーザーテストだから、そっちのサイト使えてようがなんだろうが、今このサイトを使って欲しいのにな・・・。

そう、団塊世代も、若い子も「使える」のレベルは千差万別。

先日、若い方(40歳代)が入会された。(うちは65過ぎるまでは若い!と判断する職場)

「就職するときにパソコン使えますか?と聞かれたので、まあ少しなら、くらいはと回答したら職場でパソコンが全然使えないようぅ。うぐっ(号泣)」

資格を持っているからといって正直使えるレベルにはならない。(コレばかりは多少の経験も必要。あと、相手が何を欲しているかを読み取る力が一番重要かも)勉強じゃなくて、遊んでいることのほうが重要な気がする。(資格しか受けていない人は資格以外のことに対応出来ない場合が多い。使っていて暇だから資格取っちゃった♪の人のほうがずっと使える。)

しかし、相手は、自分の使えるレベルを相手の「使える」という言葉に当てはめる。
(私もよくやっちゃうので反省しているけど)

つまり、団塊世代とか、シニア層が「パソコン使えています」というのはYahoo!を見ていたり、googleで嬉しそうに検索をしたり、文書を閲覧することであって、決して「あなたのサイトも使える」ということではない。使えないサイトは、使えないまま。

パソコンが使える人の周りには得てして似たような人が集まる。だから、自分のレベルが他人と同じだと思ってしまう。同じ言葉で通じるということを信じて疑わない。
たまには、使えていると思っていて大して使えない人の中に飛び込んで、自分のレベルと他人のレベルのギャップを埋めていかないと、あなたのサイトは使えないままだと思う。

セブンイレブンの鈴木会長が「現場主義は弱い」と書いてあったが、現場=狭いエリアだけで安住するのは弱い、ということだと思う。客観的に「自分と違う人たち」の中で揉まれて、観察する現場であれば良い。自分のエリアで売上の増減に振り回されるのではなく、一歩、自分とは違う世界を感じ、認知する。それが使いやすさにも、売上にも超重要。

と、自分への戒めの様に備忘録。

#以下余談。
いやしかし、最近の若い子も、どんどん使えなくなっている。
ケータイ文化だからか、パソコン使えない子が増えている。
だから、老婆心ながら、若い子向けのPCサイトを作るなら、シニア層と同じようにユーザーテストが必要なのかも。脊髄反射のみでクリックするので、ちょっと文章が多かったり、絵がなかったりすると飽きちゃうみたいです。言葉にするのが難しいですが、なんか、最近若い子(これはボランティア先の中学生や通っている大学生を指している。)のネット閲覧方法が変化してきている?と感じる。モヤモヤ。モヤモヤモヤモヤ。

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学びと老化

本日は久しぶりにてやや雑感を。

歳をとってから学ぶということは、とても大変そうだ。
だから、ワタシは若い人に「若いうちに学ぶ習慣と、疑問を持つ&仮説を立てる習慣を持っておけ」とまるで年老いた人のように言う。若年性老化だってあるわけだし。

さて、学ぶとはなんだろう?

ただ知識の詰め込みは、学ぶとは言わないと思う。
学ぶとは、自分の体に吸収することなんだと思う。
ただ、吸収する前に知識のつめこみが重要で、知識を詰め込めない人は学べないワケなのだが。イメージとしては大量の水を脳みそに詰め込んで浸透させていく感じ。水を飲んだってほとんど出ちゃうのだから、知識もそんな感じだ。きっと。

学んで、吸収したとしたら、そこに応用力が聞く。そして、気づく。
世の中が色々なもので成り立っていることにキラキラできる。

それが気づき力で、それは学び力が基礎になっている。
学びはもちろん、書からだけではなく、色々なことから学びのきっかけがあるんだろうけど、もちろん、友から学ぶことも多いだろうけど、その前に体系だった本を読むなどしておけば更に学べるなあと思う。ということで、よく疎かにされがちな数国社理って超重要だと思う。水素のモデルを見て感動しながら組織論に思いを馳せるって最高。

ということで、ここまでの結論、学びは重要である。基礎学力は特に。書を読もう。若いうちに。

さて、老化。老化の過程において、日常という歴史が脳みそに積み重ねられていく。皮膚が硬くなるように、少しずつ、脳みそが硬くなる。
ルーティンワークで色々なものが過ぎていく。いや、色々考えているんだよ、と反論を受けそうだが(実際、専業主婦の姉から受けたが)脳みそは意識しないと新しいことに対して反応しなくなる。

反応しないから、少し頭を使いそうなことを拒否するようになる。自分では気づかないうちに。

今、当社に小学生が通っている。さあ、やってみようと声をかけると「うん。」これが早い人だと20歳代後半あたりから「やったことがないので解りません。」と入る。人間誰だって初めてがあるんだ。学びの姿勢が弱い人は初めてに対する抗力が弱い。
「え、苦手だし」「昔からダメなんだよね」「多分無理」ムリムリ選手権に入っている人はずっとそのまんまだ。「ムリ」は楽な言葉。「やってみよう!」って結構難しい。それが歳をとるってこと。歳をとれば、誰しもがそうなっていくわけだけど、20歳代でそれはヤバイと思う。
なので、ワタシは、ムリ、というセリフが増えてきたり、「興味ない」「やったことがない」という言葉を聞くと「ああ、この人は老化が始まっているな」と判断する。

50歳代になるとよほど意識した頭の使い方をしている人以外、よほどのことがない限り「やったことないから解らない」という。「良かったじゃないですか。まだ人生にはやったことがないことが沢山あるから楽しみ」と小理屈をこねても「えー。難しいことやだー」「解んない」これが連発されると新しいものを吸い込めなくなる。

例えば、子どもは「あいうえお」をドラッグして、文字の色を変えて変わったことを確認したら「かきくけこ」もドラッグしようとする。これが学べなくなってくると、「かきくけこ」をドラッグしない。「指示がないから」「だって、やって変になったやなんだもん。」今、若い人たちが何故?と思うようなことで躊躇する。それが老化した人が学ぶってことだ。

そして、どんどん学びから離れる。学びはダイエットと似ている。意識しなくてはできない。(多分ね。マラリアになったら一発だけどね)

つまり、老化しちゃった後に学ぶのは大変。だから若いうちに学んでおこうね。ということ。

で、じゃあ、老化した人はどうするの?

老化してしまった脳みそを持ったら、焦らずに少しずつやわらかくするしかない。
他人と同じペースでできることを考えてはいけない。

先日、久しぶりに講習会をしたのだが、70歳代の方が50歳代の若さについていけず、ギブアップしそうになった。
まず、視野の狭さも問題なのだが、もちろん、短期記憶の欠如も問題で、先ほど押したボタンの場所を再確認するときには画面を最初から舐めるように見なくちゃいけないというのもあり。
エクセルを担当したのだが、例えば、ここのセルに色を付けました。じゃあ、皆さん好き勝手に今ある表に色を付けましょう、と促したところ、74歳だけ、ずっと止まっていた。「いや、もうコレで十分ですから」「今まで勉強していないので、ちょっと、辛いです」

歳をとって勉強を始めようというならば、あきらめちゃいけない。「ワタシ勉強してないもんねっ」と開き直るな。

60歳でも、85歳でも、「勉強するって、楽しいなあ」って言える大人を見ると若者の私たちもやる気になるし、楽しくなるので、きつくても言って欲しい。幸せそうに見える。

なので今日の雑感のまとめ。
老化したら、脳みそが硬くなる。それは誰もが迎えてしまう。
硬くならないためには今から意識するして、そんなに硬くならないように頑張るしかない。
今より若い日はないし、未来は今から作るもの。
そのためには目の前の楽しいことも重要だけど、本を読むのがいい[要出典]

で、もし、すっかり老化してしまったら、揉み解すのに焦っちゃダメ。ダメ、ゼッタイ。
開き直りもダメ。学気持ちがあれば、死ぬまで学べる。恋と学びは灰までだから。

学ぶことを楽しい!って大きな声で言える、小手先のテクニックの受験対策ではなく、学ぶって面白いよねえ、としみじみ言える感じがいいなあと思うのである。

#どうでもいい話。
はてなの流行?じゃないけど、「そんなんで子どもを育てる権利があるのか。勉強の楽しさを知らない親に育てられたらどれだけ子どもは不幸か。」と思わないことも時折なくもなくない。
でも、まあ、いいじゃない。反面教師という言葉もあるし。親も子どもも選べないんだし。マッチングは神のみぞ知る。親がすばらしくたって子がすばらしいとは限らないし、ダメな親のほうがいい子が育つこともある。ただ、学びを楽しめない親の子どもはやはり、学びを無駄なものと思うのかなあ。いい先生と出会えると良いなあ。

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ストリートビューとシニアと対岸の火事と

昔、何かのコラムに 犯罪が近くで起きた場合、恐怖でコメントができなくなり、遠くで起きた場合は「怖いわねえ」と言うとかいうのがあった。

コメントができなかったのか、自分じゃなくてよかったと思ってしまうのか、とにかく身近であれば自分の身に置き換えるし、遠くで起きた場合は客観的になれる。ふーん。というように。要は、対岸の火事だ。

ストリートビューをシニア層数名に見てもらった。
東京タワー、浅草、金閣寺、

「わあ、面白い」

そこにだれが映っていようとただの壁紙。

ところが、ご自宅が映ると反応は一転した。

「なにこれ」「怖い」「いつの間に撮られたのかしら」「気持ち悪い」

ストーカーに狙われているような、誰か、知らない人に見張られているような、そういう感触。
確かに公道だから文句は言えないけども、盗み見されているような、そんな感触。

「これ、問題になるわね」とKさんがいう。

さっきまで、他の人の敷地(まあ有名どころだけど)を見ていたのに、その感触の違いはなんだろうとしばし悩む。

テレビと同じで、画面の向こうに誰がいるかで感触は変わるんだろう。

テレビのように、自分と無関係なところは「ただ面白い」
しかし、自分関連が映るとなると、自分に関係する画面になる。自分に関係する事件と同じ感覚。
そうすると「気持ち悪い」となる。誰かの存在を認めることになる。誰かによって、知らない自分の家を見せられる。なんかのホラー映画みたいだ。

テレビで他人が映ったり、泣いたりしているのには興味があるけど実感がわかない。そんな感触がシニア層と(シニア層だけじゃなくてうちの姉も含めて)ストリートビューなのかな。と思う。

どうでもいいが、私はテレビが嫌いである。年間数時間もテレビを見ない。(テレビ局勤務の方、テレビ好きな方、ごめんなさい。友人・知人はテレビ局とか勤めている人もたくさんいますが、そのことを否定するわけではなく、個人的に、テレビが嫌いなのです。)

そもそもテレビを嫌いになったきっかけが、テレビの図々しさである。
私は巨人ファンなのだが、当時の巨人は本当に人気で、自由席を確保するには始発では間に合わず徹夜ということもままあった。
そうすると、朝6時くらいにテレビ局が来て「こんなに人気でーす」みたいなことをテンション高く告げる。

誰の許可を得て、勝手に撮ってるんだと。ちょっとムッとした。
さらに、「すいません、カメラ通るんでどいてください」という言葉にさらにムッとした。撮られる人がいなければ絵にもならないのに、撮られる人に何を強要しているのか、あとから来たら後ろから並ぶべき!的な怒りがふつふつと湧いた。

試合を放映する。ついでに喜ぶ観客を勝手に映す。(何度か勝手に映されたこともあるらしい。友達から連絡があった)

別に映ってどうこうというわけではないだろう。
誰も、一観客なんて見ていない。
でも、もしかしたらひどい顔をして緒方のミラクルホームランを湛えまくっていたところを撮られたかもしれない。(実際、ミラクルホームランのときは西武球場にいた。西武とジャイアンツの日本シリーズ)
それが勝手に映されて、「観客の皆さんが本当に喜んでいます」と放映されていたかもしれない。(興奮しすぎてそんなことはどうでもいい)

ただ、それは他人にとってどうでもいいことで、自分にとって嫌だなあと思う。

いや、もっと解りやすい例を。

台風のときに新宿駅で足止めを食らった人にインタビューをしている番組があり(そんなものをインタビューしてどうするんだ。そういうのを繰り返し放映するテレビが嫌い。だから見ないのだけど。(たまたまその時はついてた))その後ろを通るカップル、みたいな。

自分の知らないところで映されている。
全国の人がそれを見ている。
正直、だれもそのカップルには目を留めない。
が、彼らは厭なのだ(多分)。自分でコントロールできない、自分露出。

正直、教室内では、何とも言えない雰囲気だ。
観光名所は楽しいが、観光名所以外はキモ、という感覚。
それは歳のせいなのか?

ストリートビューをうーん、ちょっと・・・というと、web3.0(笑)についていけてないと指摘されるのもちょっと嫌なものだけど、インターネットを見れない高齢者はアンコントローラブルな自分露出についてどう思うか分からんよ、という指摘をどこかの記事で見たので、インターネットが使える高齢者の意見を少し反映させてみました。

要は、他人の家なんて興味ない。他人の家が載っていても気にならない。友達の家は面白い。自分の家は気持ち悪い。観光名所は楽しい。対岸の火事的コンテンツであるってことだ。これが今日の結論。

#ところで、札幌の時計台の画像が削除されている。なぜだ?なにかムフフなことでも?ワクワクしてしまうではないか。
#ちなみに、我が家は私道もどきなのだが(皆がつかっているが、我が家の前の道は実は隣の家の敷地)、我が家が写っている。公道しか写していないとGoogleサイドは言っているが、区役所で調べてというレベルではないみたい。私道!と張っていないところ以外はどうも入っているみたいですな。これはどうかと思うけど…いつ撮るのか言ってくれれば、家を着飾ったのに!

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シニア層と登録画面

暑いですね~。頭から湯気が出そうです。ぽっぽー。

本日は某サイトを利用してみよう講座が午前中に開催されました。
某サイトのご担当の方もいらしていただき、問題点を確認。百聞は一見に如かず!

次回のウェブサイトエキスパートでの連載は登録画面の使いやすさについて原稿を書きましたが、その前に簡単に登録画面の使いづらさ、間違いやすさについて書き記してみます。

登録画面はシニア層だけではなく、インターネット未熟達者にとっては箱根の山です。駅伝大好き。
未熟達者の中でも特にシニア層は視野が狭いのが特徴です。また、画面全体を把握できない為、瑣末なこと、たとえば赤い太文字であったり、画面上部の動く画像(バナー)であったりに視線が固定されてしまうとその周辺数センチしか視線がいきません。

ということから、本日の登録部分メモ。(スタッフN君に大感謝)


あるあるぅ 例1)
「全角入力で入力する癖で、enterボタンをつい押してしまう。」

この動作により登録ボタンを押した事になり、エラーが出てしまう。そしてパニック

→エラー画面だということはパッと見て気づくので、
  ◎何がいけないのか
  ◎どうすればいいのか
 が、パッと見てわかるようにしてほしい。

例1)エラー画面が出ると焦ってしまい、また画面の下にスクロールしないと再入力画面があることに気づかないので、大きな↓記号をつけて自然と下に誘う

例2)enterを押しても画面が変わらないようにする。(登録ボタンはマウスクリックのみ反応など)

例3)「エラー」ではなく、「あらためて入力して下さい(赤文字・もしくは赤画面)」と表示し、再入力が必要な項目だけをピックアップして表示し自然と再入力作業が出来るような画面にする。


私としては楽天のエラー画面が優秀だと思っているのですが、やはり赤文字を見ただけで混乱してしまい、どこに目線をやればいいのか分からなくなってしまうとのこと。

スクロールやら視線が落ちるやらを待つのではなく、そこに下矢印をつけて自然に再入力を促すのがいいのではないか、ということでした。

次回のウェブサイトエキスパートでは Yahoo!ブログ、Gooブログ、アメブロの登録しやすさについて2回に分けて(3回になるかも?)書いています。よろしければご覧くださいませ。

暑い日が続きます、くれぐれもお体にはお気をつけくださいませ。

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